2010年 10月 03日
六ケ所・核燃再処理工場、完成2年延期へ |
みなさん、既知のことだと思いますが、9/2のニュースですね。
寿島は正直、心の底からホッとしました。
前回の投稿に対するfujitamanegiさんからのコメで、
「青森県民には何も知らされていない」とありましたが、
まあ、そうでしょう。。。実際、仕方の無いことかもしれません。
ちょうど1年前に紹介したチェルノブイリのナターシャ・グジーさんが語っているように、
事故が発生した後ですら、その事実は伝えられない可能性があります。
(多量の放射線を浴びた人が移動する場合、二次被爆を起こすんで拡散も防止せにゃ。。。)
だからこそ、大本営発表は話半分(ゼロでOKと思われ)に聞いておいて、
状況をしっかり監視しておかないとマズイ訳です。
ちなみに、ノルウェーが英国セラフィールドの再処理工場の事故をシミュレーションしていて、レポートにまとめています。 >> レポート(PDF)はこちら
シミュレーションの結果は、降雨や風の影響で、放射性物質が降下するのはイギリス本国ではなく、ノルウェーである可能性がある、というものです。
そして、このレポートの最後に永田文夫さんのレポートが掲載されているのですが、六ヶ所再処理工場で同様のシミュレーションを行った結果が右図です。
被害規模が具体的に想起されて、何とも言えない気持ちになります。白神とか岩木山とか八甲田山とか十和田湖とか。弘前のりんごとか、陸奥湾のほたてとか、田子のにんにくとか、八戸のイカとか。サヨナラです。
ともかく。本格稼動が始まると、1日で原発1年分の放射性物質を排出すると言われる現実と、壊滅的事故の可能性を常に「起こりうるもの」として想定しながら生きていかねばならない訳ですね。そんなものがエコであってたまるか!と。
と、レポはこれくらいにして、 ナターシャ・グジーさんをコメントと合わせて再掲します。
(また泣いてしまいました。うっ!?なんかビミョーな公式サイトがありますね)
http://www.youtube.com/watch?v=ry_WACFd8Ds
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/10729.html
いまから22年前、チェルノブイリ原発が爆発しました。当時私は6歳でしたが、私のお父さんが原発で働いていたので、私たち家族は原発から3.5kmのところに住んでいました。事故があったのは夜中だったので、ほとんどの人が事故のことを知りませんでした。
そのため、次の日は普通に生活していました。子どもたちは学校へ行き、お母さんたちは小さな子どもを連れて一日中外で過ごしていました。そうして、目に見えない放射能を浴びつづけていたのです。私たちが事故のことを知らされたのはその次の日でした。大したことは起きていませんが、念のために3日間だけ避難してください。3日経ったら必ず帰ってきますから、荷物を持たずに避難してください。そう言われて私たちは荷物を持たずに街を出てしまいました。でも、3日経っても、1ヶ月経っても、そして20年経っても、その街に戻ることはありませんでした。毎日遊んでいた美しい森も、思い出がたくさん詰まった家も、みんな壊されて土の中に埋められてしまいました。いまそこには何も残っていません。生命が輝いていた街は死の街になってしまいました。
しかし、私たちが失ったのはふるさとだけではありませんでした。たくさんの人たちが亡くなっています。私たちの子どもが何人も亡くなっています。でも、それだけではありません。事故から20年経って、当時子どもだった私たちの世代が大人になり、結婚をして、子どもを産むようになりました。そして、新しいこの世界に生まれてくる赤ちゃんたちの健康にも異常があります。20年以上前に起こったチェルノブイリの悲劇はまだ終っていません。人間は忘れることで同じ過ちを繰り返してしまいます。悲劇を忘れないで下さい。同じ過ちを繰り返さないで下さい。そう願って、私は歌を歌っています。
この歌もそんな気持ちでお届けしたいと思います。とてもかわいらしい曲なんですが、とても意味の深い歌詞を持っている曲です。「いつも何度でも」
寿島は正直、心の底からホッとしました。
前回の投稿に対するfujitamanegiさんからのコメで、
「青森県民には何も知らされていない」とありましたが、
まあ、そうでしょう。。。実際、仕方の無いことかもしれません。
ちょうど1年前に紹介したチェルノブイリのナターシャ・グジーさんが語っているように、
事故が発生した後ですら、その事実は伝えられない可能性があります。
(多量の放射線を浴びた人が移動する場合、二次被爆を起こすんで拡散も防止せにゃ。。。)
だからこそ、大本営発表は話半分(ゼロでOKと思われ)に聞いておいて、
状況をしっかり監視しておかないとマズイ訳です。
ちなみに、ノルウェーが英国セラフィールドの再処理工場の事故をシミュレーションしていて、レポートにまとめています。 >> レポート(PDF)はこちら
シミュレーションの結果は、降雨や風の影響で、放射性物質が降下するのはイギリス本国ではなく、ノルウェーである可能性がある、というものです。
そして、このレポートの最後に永田文夫さんのレポートが掲載されているのですが、六ヶ所再処理工場で同様のシミュレーションを行った結果が右図です。
被害規模が具体的に想起されて、何とも言えない気持ちになります。白神とか岩木山とか八甲田山とか十和田湖とか。弘前のりんごとか、陸奥湾のほたてとか、田子のにんにくとか、八戸のイカとか。サヨナラです。
ともかく。本格稼動が始まると、1日で原発1年分の放射性物質を排出すると言われる現実と、壊滅的事故の可能性を常に「起こりうるもの」として想定しながら生きていかねばならない訳ですね。そんなものがエコであってたまるか!と。
と、レポはこれくらいにして、 ナターシャ・グジーさんをコメントと合わせて再掲します。
(また泣いてしまいました。うっ!?なんかビミョーな公式サイトがありますね)
http://www.youtube.com/watch?v=ry_WACFd8Ds
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/10729.html
いまから22年前、チェルノブイリ原発が爆発しました。当時私は6歳でしたが、私のお父さんが原発で働いていたので、私たち家族は原発から3.5kmのところに住んでいました。事故があったのは夜中だったので、ほとんどの人が事故のことを知りませんでした。
そのため、次の日は普通に生活していました。子どもたちは学校へ行き、お母さんたちは小さな子どもを連れて一日中外で過ごしていました。そうして、目に見えない放射能を浴びつづけていたのです。私たちが事故のことを知らされたのはその次の日でした。大したことは起きていませんが、念のために3日間だけ避難してください。3日経ったら必ず帰ってきますから、荷物を持たずに避難してください。そう言われて私たちは荷物を持たずに街を出てしまいました。でも、3日経っても、1ヶ月経っても、そして20年経っても、その街に戻ることはありませんでした。毎日遊んでいた美しい森も、思い出がたくさん詰まった家も、みんな壊されて土の中に埋められてしまいました。いまそこには何も残っていません。生命が輝いていた街は死の街になってしまいました。
しかし、私たちが失ったのはふるさとだけではありませんでした。たくさんの人たちが亡くなっています。私たちの子どもが何人も亡くなっています。でも、それだけではありません。事故から20年経って、当時子どもだった私たちの世代が大人になり、結婚をして、子どもを産むようになりました。そして、新しいこの世界に生まれてくる赤ちゃんたちの健康にも異常があります。20年以上前に起こったチェルノブイリの悲劇はまだ終っていません。人間は忘れることで同じ過ちを繰り返してしまいます。悲劇を忘れないで下さい。同じ過ちを繰り返さないで下さい。そう願って、私は歌を歌っています。
この歌もそんな気持ちでお届けしたいと思います。とてもかわいらしい曲なんですが、とても意味の深い歌詞を持っている曲です。「いつも何度でも」
by tiptopstudio
| 2010-10-03 01:57
| Against